思考することが嫌になってしまった。
今までは、どんなに苦しくても、考えることだけはやめてはいけないと思って生きてきた。なぜなら、結果として起こる自分の行動の正誤はわからないが、その過程で行う「考える」ということだけは正しいと思うからである。
極論、思考するからこそ「ひと」であり、思考をやめれば、ひとはただの動く肉人形であると思う。
しかし、最近、頑張れなくなってきた。
思考をやめて、刹那的に生きたいという欲求を強く感じる。
このように主観的に強く感じる一方で、もう一人の客観的な自分が、それはフロイトのいう防衛機制にすぎないという。
客観的な自分がそれはただの逃避だと非難する。
そして、それはこの文を書いている今も続いている。
中途半端に思考を続け、知識をつけた結果、自分の中にもうひとりの俯瞰している自分が生まれた気がする。
いや、正確には、小学生の頃から俯瞰している自分はいたが、そいつに知識がついたような感覚だ。
自分の行動や思考全てに、第三者の解説がついているような感じといえばわかりやすいかもしれない。
この感覚は多くのひとにあるものなんだろうか。
それとも、自分はなんらかの異常をきたしつつあるのだろうか。
お返事がもらえると小瓶主さんはとてもうれしいと思います
小瓶主さんの想いを優しく受け止めてあげてください
ガラスの羽ペン(吹部・打楽器)
お返事失礼いたします(長文すみません)
現在高3のものです
自分も似たような感じで、
めっちゃ感情的な自分と、
理性的でちょっと冷酷(?)な自分がいます。
私はこの感覚を自覚したのは高校生になる少し前でした。
自覚したと言っても、なんかあるなーってぐらいでした
言葉にあらわすことが出来なくて、
小瓶主さんの投稿を目にしてようやく分かったという感じです
小瓶主さんは書かれていませんでしたが、
私の場合、
悲しいとき、
苦しいとき、
泣きたくなるようなときでも
理性的な自分が付き纏ってきて
泣きたいのに泣けないという状況が多々あります
この現象は何なんでしょうかね、私にもわからないです
でも、周りを見る限りは大半の人はそのような感覚はなさそうですね
(私ほどの人はそうそういないです)
異常とかではないと思いますよ、
私の場合、原因は心の余裕がない時期があったとかですかね、、
私は多分、何らかの要因があって、
心を守るために思考回路が変化したという感じだと思います
主さんに心当たりがあるのなら多分それです
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小瓶主さんの想いを優しく受け止めてあげてください