前向きな言葉に只ならぬ嫌悪感がある。
詐欺師の営業文句でも聞いているかのような怪訝な気分と、生きてきた上での暫定の総括を否定されたかのような空虚な気分が同時に押し寄せる気分の悪さは筆舌に尽くし難い。
まるで自分の失敗を他人の時間を使って言い訳をしているかのではないかという、ほぼ確信に近い猜疑心。
それでも干渉を辞めない『心配』という都合の良い弁解。
その言葉を根底から裏切る様に一切見ることのない表情。
幸せって何ですか?
心を殺してまで外面を取り繕う事ですか?
『大人』の言う普通になる事ですか?
井戸端会議で悦に浸る事ですか?
私は『大人』になって随分時間が経ったが、心に蔓延るモヤモヤは晴れもしなければ濃くもならない。
逃してしまった『後悔』と過ぎてしまった『理解』の比率が変わるだけで常時プラマイゼロ。
薄々解ってはいる。
私は幸せになりたくないのだ。
他人の意志で生きた自分の人生を真っ向から否定する為に、幸せを放棄している。
自分がなし崩し的に歩んだ人生の結果が決して肯定されてはならない。
この結論が正しかったと思われてはならない。
幸せを拒否する事を最大の抵抗だと認識している。
何かの機会に『不幸を続ける事は怠慢、幸せになろうとしないのは卑怯』という言葉を耳にした気がする。
腑に落ちた。
多分そうなのだろう。
自分の人生を生きている人間はそう思うんだろう。
不幸を続ける事を『反撃』、幸せになろうとしない事を『復讐』と捉えていた私でもそう思えた。
『大人』になる前から
この感情がストレスだと気付く前から
未来が想像できなくなる前から
もう既に自分の掌の上に人生なんてものは無かったのだ。
こんな根本からねじれた認識を持って、社会に溶け込もうとした処で一般的な会話が理解できる筈がない。
本音が言える社会なんてものは所詮民主主義の枠でしか実現しない。
知らない事程語れない物はない。
リアルもネットもメディアも。
気分が沈む話だと理解しているにも関わらず、沈んでいる人間を見放す。
まぁ世の中そんなもんだ。
多分私もそうする。他人の人生なんて背負う気もない。
生きたければ生きればいい。逆も然り。
だから繋がる事が目的の世界では吐く事が赦されない言葉を、眠りにつくことすら困難な夜を、こんな駄文を綴りながら、誰に宛てるでもなく、他人からすれば吐き気のするような腐った感情を、それでも今日を生きてしまった愚かさを、自分に向けた呪いを延々とかけている。
私は自分を肯定するのに態々他人を利用しない。
しかし私は自分を否定するのに他人を利用している。
だから変わらないと言っている。
結局既に筋道は決まっている。
恐らくこの感情を持ってしまった時点で、下る事は無くなったとしても上る事はない。
かけると映像が飛び出してくる3D眼鏡の逆様の効果とでも言うか。
このフィルターは一度かかってしまうと二度と外れる事はないのだろう。
皮肉なものだ。
応援して欲しかった人間が、前向きな言葉を嫌悪する。
努力しようとした人間が、怠慢の理由を探す。
幸せを探していた人間が、不幸を求める。
感謝したかった人間が、怨念を抱く。
生きたかった人間が、死を待つ。
未練が無いのに断ち切らないのも怠慢なのか。