どうやって、己というものを燃やすのだろう。
私は、もとより、他者に意識的に選別されようとする行動も努力もしてこなかった。それは他者に興味がないということが要因の一部である。
集団にすら大した価値を見出さず、ましてやその中身などどうでもよくなった。個人ですら私にとってはどうでもよく、私自身ですら、どうでも良いと感じている。
それでも私のそばには友人と呼ぶ人間がいて、私もその人の隣で笑うことを良しとしている。
私を人間の集団の中に置いた場合の立ち位置は、決して端の隅ではなく、かといって先頭を行くわけでもない。程よく快適な位置を保ち、他者にも不快に思われない立ち位置にいるのが常である。別に作っているわけでもなく笑い、無理をしすぎていない程度に私ではない私でいる。
我が道を邁進するわけでも、他者に飲まれきるわけでもない。言わば中途半端な人間なのだ。
この性分が、顕著に歪みだした時は大学進学だろう。洗脳する者の側を離れ、徐々に私が私として行動を始めたと言い得る。しかし完全な私になるには些か機会と努力が足りなかったのだろう。未だ右往左往とし、ましてや私自身が半透明であることに気づいては失望するばかりである。
私は本当は何が好きで何がしたいかなどがわからない。今私が好むといっていることが本当に私は好んでいるのだろうか。それほどに私は地に足つかずにいる。
今までの構築が今の私である以上、それは仕方がないのだが、それではいけないのが世であり今である。
かといって、完全に別の人間に成り切ろうともできないのだ。なけなしの自我と、何かを守らんとする無意識が、私の心を弱くする。酷くわがままで憎たらしいこの餓鬼をどうにかしてやりたいとつくづく思うが、餓鬼ではいられないという自覚がさらに私を押し潰している。
全て生い立ちが原因だと云えば、それを言い訳に何もしない馬鹿ば人間であり、かといって何の策もなく前を向けば何の活路も見出せない。
全ては過去の結果であり、それが私であることは違いないというのに。
私は多方向の人に対する価値を失っている。
同じコミュニティで動く人間は、そうではなく。目の前で話す人は私と同じ人ではない。そして私ですら俯瞰する他の生物であるかのように思われる。水槽の中で走るラットか蟻をひたすら眺めている気分だ。
そんな中で自らもその通り動かねばならないというのだ。ネズミの社会で人は生きていけないだろう。蟻の社会構成・行動パターンに添い生活して行けるか。否、それはできっこない。
気に入らない点が言語化できる状態である物は、本能だの愛だのである。理性を確立し発展してきた人間がなぜ本能に従順になる。しかしあれは愛や本能なんぞお綺麗な言葉で表現すべきものではない。人間が繁殖という種の繁栄のプロセスを醜いものに仕立てたのだ。
まぁこれは言い訳だ。どこかでそう思っていることには違いないが、聞けば苦しい言い訳にしか聞こえない。
こんな飯事な社会が、本当に回っていていいのだろうか。誰が真に幸福だろう。生きていれば何かしら楽しいなどの方が私にとっては戯言だ。苦があれこそ幸せなどとも、もう思わない。
何が面白くてこんな社会が持続しているんだ。何が嬉しくてこんな人間が蔓延る。
人間は真に自由や幸福など望んではいないのだ。
社会のための人間は、醜い歯車。そして私はそれになることを今選択させられる。
正直生きることもどうでもいい私にとってこの選択はしなくてもよい選択だ。死んだ方がいいのではないかとすら考えている。
しかしわがままな私は決めきれないまま、この先何かしら面白いことがあるのではないかという生前ながら剥奪説を唱えだすのだ。
過去をみつめていても、そんな昔話引っ張り出してどうするんだ。過去に囚われていてはならないというし、前を向こうとしても真っ暗で臆病な私は前に足を踏み出すことができない。
それでもとまるなと、皆が進むのだからお前もすすめと言うのだ。我が道を行かんとするものが、なぜ皆と足並みをそろえる。
私には人間というものがテンで理解できない。
機械的に動こうとするくせに、そうではないと言い張る。
多様ではないものを欲するあまり、多様性を重視してと言いたくて仕方がない。見世物小屋でも作りたいのか。大手を振って少数者だと言う人間もおかしい。己がなぜ尊重されるべきだと思うのか、いつからか主張が歪みだした。確固たる己の世界もないくせに承認欲求だけはご立派だから簡単に世間に歪められる。あれは社会が歪めたろう。
社会に出て労働する。このことはまぁいいだろう。人としてはすべきことだと思う。だが、これに至るまでのプロセスが歪んでいる。
社会が求める人間とは。ふざけたことを言うな。何が面白くて奴隷に選別されたいか。社会のための人間を選ぶこの姿勢がつくづく気色悪い。
履歴書・エントリーシート、文章の作成も、ただその人物を知りたいのではなく、社会において何ができるかを知りたいという。生まれながらに歯車にしたいなら、そのようにして仕舞えばいい。子供だって働く能力はあるし、何ならその職に特出した人間を育て上げればいい。それをわざわざ約20年も自由に近い状態で生かしておいて、社会に則した人間に育ちましたかと問うことは何事か。
それに対するエピソードが書ければ良し、技術がすでにあれば直良し。
なぜ自由にできると言われて、社会に則した生き方をして社会が喜ぶ行動をしていなければならないのだ。もっと自由に道楽に生きてはいけないのだろうか。
私が求める自由はそんな無理難題で、これまでの人間が成し得なかった非常識な自由ではないはずなんだ。