たとえば、こんなセリフがあったとする。
「たけのこの里ときのこの山、どっちが好き?」
答えは人それぞれだと思う。
「たけのこの里」
「きのこの山」
これ以外にもある。
「選べない。どっちも好き」
「どっちもあんまり好きじゃない」
この他にももっとある。
「食べたことない」
「たけのこ:きのこ 4:6ぐらいで好き」
数えきれないくらいのパターンが存在すると思う。
でも、このセリフに対して、自分と答えが他人と違った違ったとしても
自分の答えを否定する人はいない と思う。
(私だけかもしれないが)
「えー。たけのこの里もいいよー」
「確かにたけのこの里もいいけどきのこもいいんだよな」
こんな感じで、同性愛も受け入れられたらなと思う。
たけのこの里ときのこの山みたいに、何気ない会話で誰も傷つけず、ほわ~んとした感じ。
LGBTが受け入れられるようになっているとは思うけど、
私の理想とはなんか違くて、あれってかえってLGBTに該当する人が目立ってしまっている気がする。
たとえば
「この人は同性愛者だって。否定しないであげて。」
ってあからさまに言われているような気もする。大げさだけど。これは。
LGBTの概念はもちろんあっていいと思うけど、たけのこの里ときのこの山みたいに、
どっちが好きでも、どっちも好きでも、分からなくても
自然に当たり前に存在できたらいいよね。
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ななしさん
そういう社会であって欲しいですよね〜
人の弱さや臆病さ、人と自分との差異を包括する力が今の社会には不足しているんじゃないかなと思います。
ちなみにきのこの山派です(聞いてない)
ななしさん
そうだね
きのこの山とたけのこの里は
手に届くところにあるけど
届かないものもある
届いてほしいって、頑張っちゃう気持ちもわかってしまう
でも、頑張らなくて
それが日常になるのがいいのに
ななしさん
「自然に当たり前に存在できたらいいよね」賛成。
怒りのような感情はさ、身近な知り合いが、悪くないのに傷ついて落ち込んでいるとき。そのときくらいは、変わりに怒ってもいいかも。と、思っています。
法律、当事者ではない側の意見だけど、“差別”という文言はなくてもいいと思う。当事者の方々は、それで苦労してきたから欲しいのかな。
つうか、結婚を認めてやんなよと思いながらニュースを見ています。
最後にもう一度、「自然に当たり前に存在できたらいいよね」に賛成。
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