「生きてる。ってそんな悪いもんじゃないですよ」
「まあ、辛いし苦しいし死にたいですけどね」
「でも貴方とこうして会えてお話しできてるし」
「死ぬ方が楽だとしても、今ここに生きて居るのは…私は、そんなに悪いもんじゃないかなあ。って思います」
って、死にたい同士連れ立ってどこかへ出かけて、そんな会話をする想像ができるから、生きれるうちはまだ生きていたくて。でもそのうち自殺するならそれでもよくて。
よっぽど何か…これから本当に、自分が考える生きていけるビジョンみたいなのが現実に起こらないかぎり、「死にたい」ことは変わらないと思うから。
変えようとは思っていないから。変わらない。
私はいまのところ、いまのままで好きだから。
理想が実現しなくても、ただ描けるだけでも充分だ。
そうやって生きて、いつか死ぬんだから。
何一つ、思い通りにいかなくても、ただ〝思い〟だけは、生きて持ててるから。それはたぶんすごく重いから、時々置かないと疲れてしまうけれどね(笑)
だから、時々投げ捨てる。
「死にたい」すらどうでもいいとするときがある。自分のも、他人のも。
死にたいときよりそうなってる時の方が一番嫌な気がする。なにも、思えないのが怖いんだ。
苦しいけれどどうでもいいや。
楽しいけれどどうでもいいや。
死にたいけどどうでもいいや。
生きたいけどどうでもいいや。
そうなってるときより、死にたい方が楽な気がして。生きたいともがいてるときのほうが楽な気がして。苦しいんだけど、苦しいってことはたぶん楽しいもあるから。
自分のためと、誰かのために、せっかく持ててるこの重くて辛い思考をもっと有効活用したいのだけれど、どうすればよいのだろうか?
これのせいで行動が制限されてるんじゃなくて、扱いが上手くできてないだけだと思いたい。
まあ、いいか。
今まで生きてきた分のお疲れ様をあなたへどうぞ。
そしてこれから生きる分のお疲れ様もどうぞ。
行ってらっしゃい。
お帰りなさい。
お疲れ様。
明日を生きるあなたに届きますように。
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