現実は過酷だ。生きるのは過酷だ。
ビジネスの世界は競争社会だ。常識の外面をした悪人がほっつき歩く。悪人はなぜ悪人なのか?その理由は、欲深いからである。自分よりも欲深いのである。
ビジネス書が性悪説に基づいて書かれてる。聖書は性善説に基づいて書かれてる。
みんな常識の仮面をつけて生活しているから、誰がどういう人間なのか分からない。常識は自分の身を悪人から守る手段である。だが悪人も常識の仮面をつけて平気で人から大切なものを騙し取ろうとする。
善人と悪人の見分け方があるとすれば、これだ。誰も居ないところで前を歩いていた人が財布を落とした。その時、すぐに財布を拾って前ゆく人に渡せるのが善人。一瞬、躊躇ってから渡すのが悪人。中身を見たり盗んだりする人は当然悪人。立ち止まり素通りしてしてしまう人はと言うと、臆病な善人である。
経済状況がよくない人はほぼ悪人になる。その中で善人になれる人は稀だ。私はもう悪人になってる。でも私はただ眠っていたい人間である(睡眠時間の確保が私の欲望である)。
常識をわきまえた欲深いビジネスパーソンは成功するに決まってる。自己責任論では騙されるやつが悪い事になる。常識の範囲で騙す事は許されると考えるようになる。
自分らしく生きようとすればお金のない人間は騙されるだけである。お金持ちなら1流から学べる。失敗してもやり直せる。
騙してる側にしても、誰かに騙されているだけかもしれない。カテゴライズせずには状況を掴めない。そのために登場するのが悪人だ。
全員が誰かしらの悪人になっている。善人になれるのは、絆を持った人同士だけだ。お金で買える絆もある。何かしらの絆で繋がっている。それが見えるもの同士が善人なのだ。それが見えないのは悪人だからである。そうやって善人と悪人に分断されてゆく。
すべての絆が見える人間は限りなく神に近い存在だ。見えるだけでなく、それを示す事が出来れば完全に神だ。
人類の1つの到達目標である。