失敗すると、お腹が痛くなって、もう自分が駄目な存在だと感じる。
完璧主義な思考に陥らないようにと、心の余裕を大切にしてても、
昔の失敗を自分で責めてるし、その失敗を知ってる人のことが浮かぶ。
気づくと、よく分からない対象に向かって、許してほしいと思ってる。
それが止められないことが謎だったし、体にどんどんダメージ受けてた。
さっき、過去に怒りをぶつけられたこと、怒鳴られたこと、それらに囚われていると教わった。
私が弱いのは、強い立場の人から叱責されること。
瞬間的に命を守ろうと思って、心身が凍りつくし、なんとか取り入ろうとする。
私が心の中でそうしようとしてる相手は多分、親であり、保育園の先生であり、体育の先生だ。
彼らは、未熟な存在が間違いを起こした時、その間違いが気に入らないから、
延々と怒ったし、怒鳴ったし、笑い者にしたし、時に物を投げた。
そこに明確なルールはなくて、笑って許される時と酷く傷つけられる時の違いが分からなかった。
それは、教育とかしつけとか、そういう高等な心の動きでなく、
その人に植え付けられた価値観とのズレからくる暴力だった。
一言で言えば、気に入らないから怒鳴った。
私が気に入らないことをしたというより、おそらくその人自身がいる環境が気に入らなかったから、怒鳴られた。
周囲への不満やフラストレーションをぶつけられた。
彼らは、失敗した人は怒鳴られて当然であるという虚しい理論で、私は怒りの矛先を向けた。
私は色んな人に出会って、何かを修得しようとしている人を見守ることと、怒ることは一緒にしなくても良いことを知った。
だから、余計に、何で偉そうに怒る人のことを気にしてしまうんだろうと思ってた。
そういう人の言葉や態度ほど、記憶に残って辛かった。
それは、今の半分ほども身長がないような幼い頃に酷く怒られた混乱の記憶に由来するんだと分かった。
その人たちは親や先生といった社会的地位を盾に私を標的にした。
あのときの恐怖が、立場を利用した人からの攻撃に反応してしまうのだろう。
今、自分はあのときよりも成長した。
自分も周りも完璧でないことを知ってる。
だから、昔の関係を現在の私が受け入れなくてよい。
私はあの頃よりも色んなことを吸収して変化しているから、関係性も変わった。それだけのことだ。
周りにぶつけることでしか、怒りを解消できない未熟な人たちと同じ価値観になりたくない。
昔誰がから受けた暴力を、自分より弱い立場の人に投げつけたりしたくない。
私は、その呪いの連鎖を繋ぐような人間にならない。