小学3年生から、20年以上も引きこもっている佐藤さん。
何とか今の状態から脱したいと行動に移しますが、挫折し、また引きこもるを繰り返してきたそうです。
42歳。
周りのみんなはどんどん先へ行き、このままでは自分だけが残されてしまう。
その焦燥感は痛い程分かります。
原因は子どもの頃に受けたいじめですが、親にも非はあると思いました。
母は他界され、現在は別々に暮らす父親のインタビューを見ていて、「普通は…」「普通なら…」と繰り返す言葉に、苛つきました。
私の父も優秀で、厳格。プライドの高い人で、出来の悪い私は、毎日の様に叱られてばかりでした。
まだ5歳の頃、神奈川から越してきた私は、言葉遣いが違うからと、仲間外れにされ続けました。
半年だけ通った保育園での遠足の写真は、破り捨てたい程のものでした。
弁当の時間、男の子の輪に入れてもらえなかった私を、先生が女の子の元へ連れてゆき、
「あのね、この子、男の子のグループに入れてもらえなかったから、仲間に入れてあげて」
その言葉は、心に深く残るものでした。
その後は、友達が欲しくてバカをやったり、裏切られても、馬鹿にされても、必死でした。
佐藤さんを見ていて、彼はもう一人の私だと感じました。
50に近くなり、お金絡みの調停を元妻から起こされ、事態は一変。
良かれと思ってしてきたことは、全て裏切られ、多額の借金を背負うことになり、家族ではなく、親身になって相談に乗ってくれた友人の勧めもあり、他県へと引っ越しました。
仕事だけは続けていたので、週末は4時間かけてアパートへ帰ります。
周りは呆れ返っていましたが、私にはそれが良かったと思います。
調停が終わり、今度は私から離婚調停を起こしたので、1年もかかってしまい、パニック障害を抱えた身だったので、かなりこたえてしまい調停中に起こした発作により、娘との面会の話も流れてしまいました。
それからの1年もまた、幾度も途方に暮れ、いっそ…と思ったこともあります。
アパートに帰っても、何もする気が起きず、ただぼんやりと窓の外の林ばかり見ていました。
ここでは、夕方5時になるとメロディが流れ、もう1日が終わると気づくことも度々でした。
それでも借金を返さなければならないという理由ではなく、仕事はこなさなければならないと思えたのは、厳しかったですが、父のおかげでしょう。
父は家族想いの人でした。
それは自分が家族を持って、ようやく気づいたことです。
35歳の若さで病気になり、透析を受けながら、1時間と立っていられなくまで、働き続けました。
その姿を見ていたからこそ、どん底に落ちても、なんとかやってこられたのだと思います。
私の場合は、背中を向けあってしまうのではなく、父が真正面に立ってくるので、次第に私も面と向かって、自分の想いをぶつける様になってました。
番組の最後に父と向かいあって、お互いの想いを話してました。
まだ時間はかかるでしょうが、大きな一歩だと思います。
「返事はな、相手に聞こえてなければ、してないのと同じなんだ」
そんな父の言葉が蘇りました。