お返事ありがとうございます。
上手く言葉に出来ないのですが、体育が嫌なのは少し違って…
今冷静に考えてみると
小学校の頃出来なくて嫌いだった体育が
中学になって出来なくても許される、プレッシャーを感じない環境になって(「私がかなりの運動音痴である事」をみんなが「空は青い」と同じくらい普通のことと思ってくれて)
高校になって同じくらい運動音痴が集まってて楽しくなって、
体育好きだなぁと思えてきた頃に
運動アレルギーになったんです。
なので、やっと楽しめるようになったのに、やっと好きになったのに、なんでこんな思いしなきゃならないんだ!という思いからこんな感じの小瓶を流しました。
言葉が足りなくてすみません…
アレルギーが理由で体育に参加できなくなったら運動量が減って、元々病気がちでしたが、さらに病気がちになりました。
そりゃそーです。運動しないんですもんね。
それでほんの少し走ってみたら、もう息が上がって全然走れなくて。
歩くので精一杯。
それでいいのかもしれない、十分なのかもしれない。
でもどんなに医者や先生や友達に歩く事も運動だよ、と言われても私の心はそれじゃ満足しなくて、歩くことは運動だと思えなくて。
お腹も空かないから食も進まない。
坂道や階段も息が上がって正直辛い。
このままじゃいつか死んじゃう気がして…
生きてる意味なんて分からないし、別にこのまま自然にポックリ死んでも変じゃないなって思ってしまって、小瓶の最後の言葉につながりました。
多分アレルギーは、もう一生変わらないし一生向き合っていかなきゃいけないことだから
「生きてる意味は特にない。生きてる価値も特にない。でもだからなんだ。意味がなくて価値がないものでもいいじゃないか。」と思うことにしました。最近そう思えたんです。
死ぬまでに、自分の生きてる意味と価値があるかもしれないなと思えることがあることを願うことにします。
P.S 最近私は自分の中で「散歩」を運動と認めました!!
返事の小瓶なのに自分語りで長くなって、挙句わかりにくくてすみません。
最後まで読んでくれた方、本当にありがとうございます。