農作物は生育環境が厳しい方が果実が
甘くなることがある。
欲求に対して条件が揃わないからこそ
やる気が湧いて来ることもある。
現代の日本は生命力や甘みの強い実が
育ちにくい環境なのかもしれない。
だから良い悪いということはその人に
よるだろう。
善人なおもて往生す、いわんや悪人をや。
自分が善い人間だと思い込んでいる人で
さえ救われるのだから悪人だと知っている
人はなおさら救われる。親鸞聖人は人間は
煩悩具足の凡夫だと仰った。煩悩に足が
生えたようなもの。
貪(欲しがる)瞋(怒る)痴(無知)の三毒の心が
私たちにはある。そしてこんな恐ろしい心は
自分に起こるはずがないと思っている人を
善人と仰った。人が幸せになる道、苦しみ
から解放される道を多くの人に伝えたいと
考えたお釈迦様の欲求は煩悩ではない。
煩悩=欲ではない。生きることに正解はない。
だが幸せに生きるには法則がある。幸せに
生きたいという欲求は煩悩ではない。
諸行無常、諸法無我。
迷うということは無知ということである。
その物事が何であるかというのはどこまでも
自分の解釈である。自分しかいない世界で
信じたり疑ったり裏切られたりするのは
自作自演である。白が黒に、黒が白に見える
ようになれば迷う理由も少なくなるだろう。
断定的な物事はない。
肉体を自分のものだと思っているが肉体と
自分はイコールではない。自分は肉体から
流れるナレーションである。
なぜ生きるのか。
なぜと問うのが自分で、生きているのは
肉体である。生きているからなぜという
問いが生まれた。この問いの答えは無限
である。何でもいいことはないけどね。
好みはあるし。
「正解と思えるもの」が正解かもしれない。
得意と思えることを生きているうちのできる
だけ長い時間やりたい。それが食べて行く
お金に繋がることを誰もが望んでいるだろう。
不得意とは自称しているだけでそのこと自体は
何の意味もなく存在している。逆に使えないと
文句を言われたとしても自分の能力には意図が
ないのだからわざとやらなかったのでなければ
それ以上どうしようもない。
突き抜けた得意がなければ不得意なことで
稼いでいく他に道がないのだろうか。
私が正解だと思える人生とは何だろうか。
自分の認識しか存在しない世界で疑ったり
愚痴を言ったり怒ったり期待するといった
妄想にとり憑かれず、壮大な夕陽を眺める
ように、愛する人を抱き締めて安堵感に
包まれるように生きて死ぬ。
旅をして異国情緒を胸に刻むのもいい。
その感覚は一体何だろうか。
新しい経験だから限りがあるから味わえる
一瞬の幸せである。日常の自分は先に挙げた
重たい妄想で頭を一杯にしている。そこから
解放される感覚。
日常にありながら囚われている妄想を断つこと。
これが私の正解である。自分と接する全ての
物事に現れる自分を大切にする。相手が発した
ことが何であれ、自分には通訳して認識する
ことしかできない。どこまでも自分しかいない
のである。
他人に映る自分を大切にするとは、自分以外に
恐ろしい魔物がいるような妄想を抱いていない
証である。そして人を愛するというのは他人
ではなく、他人を認識する自分を愛すること
である。他人とは自分であり、その姿形や
能力ではない。自分もこの姿形や能力ではない。
自分に三毒が生じやすい環境にいるとき、
一緒にいる相手は苦手な相手になる。自分が
できる限り三毒に犯されない環境にいること。
相手は自分だと気付いていること。その自分を
大切にすること。運命の人はいない。
そう思いたい人がいるだけ。