高校2年生の夏、祖母の介護認定が上がり、日中に1人では居させられなくなりました。
実家では父母と私と兄、そして祖母の家族5人で住んでいました。
父は、持病がありながらも、朝6時に家を出て働き、夜は8時を過ぎて帰ってきて、と真面目な人で普段はとても頼りになる人です。それと同時に若い頃からの、パニック障害とも向き合っています。
母は、母子家庭で育ち、貧しく満足に勉強に励むことは出来なかった中でも、人の輪の中に常にいるような優しく明るい人です。仕事だって、人からの信頼の元、母ならと紹介して貰えるような人です。
兄は、私の6つ上で、数学以外はてんで駄目だけれど、誰よりも優しく繊細な人です。うつ病を患い、ここ数年は満足に外出も出来ていません。
実家で一緒に住んでいた方の祖母は、母方の祖母で、母が生まれて直ぐに祖父が亡くなってからは女手一つで母を育ててきた強いひとです。しかし、優しいが故にとても騙されやすく、シングルマザーであり貧しかったためお金にうるさい人でもあります。
事の発端は、おそらく高校受験の前にした両親との話でした。
受験直前、今思えばなぜそのタイミングだったのかは不明ですが、ある夜両親からこう言われました。
『お兄ちゃんは、私たちが責任もって面倒見ていくことに決めたから。』
この少し前から、兄は重度のうつ病を患っており、社会復帰の目処がたたない状態にありました。また、祖母の認知症もこの頃はじまりました。
そして、この発言は当時の私には、『お前は早く自立しろ。』と言われたように聞こえました。嫌な訳ではありませんでしたが、とてもプレッシャーを感じたことを鮮明に覚えています。
結局、なまじ勉強だけは出来た私は、地元でいちばんの所謂進学校に合格し、通い始めました。
部活動に入ることが強制の学校だったため、運動部に所属し、ほとんど毎日夜8時過ぎに帰宅していました。課題も山ほどあり、予習も必要だったので、就寝出来るのはだいたい深夜1時でした。
そんな生活が高校2年の夏まで続きました。
祖母の介護認定が上がったものの、施設の都合でデイサービスの日数は増やせない。父母は働かなければならない。兄はひとの面倒を見られる状態でない。
そうなると、私に御鉢が回ってきたことは想像に容易いでしょう。
高校2年の夏、大好きな友人達に、別れもその理由も言えないまま、通信制高校へ転校をし、私の介護生活がはじまりました。
そこから私の毎日は、祖母の世話と兄への声掛け、疲れ果てた母の愚痴聞きで過ぎていきました。
祖母はまだ歩けはしましたが、着替え・食事の手伝いや、トイレを失敗したときの後始末等が必要になっていました。
また、認知症も進んでいたため、孫として認識されなかったり、攻撃的になった祖母に泥棒よわばりや叩かれたりすることもありました。
兄も、気分の浮き沈みが激しく、以前の優しい兄が見られるのは稀なことになりました。
母は、彼女を女手一つで育ててくれた祖母が、自分を認識出来ないどころか、罵られることがあったり、ただただ無視されることがあったりと、ショックなことが続き、心労が祟って、家で荒れることが増えました。
父は、忙しかったり、入婿なので肩身が狭かったりで、介護のことなどにはあまり口を出してきませんでした。
それから暫く経ち、高校3年生の夏、今度は両親からこう言われました。
『あんた大学どうするの。』
両親は私が大学に行くことを強く望んでいたようでした。
私自身は、日々の生活で手一杯であったり、お金も無いから就職かなと思っていたりで、その時は、大学なんて全く想定していませんでした。
しかし、行かせて貰えるならありがたい、とすぐに慌てて知識を詰め込みはじめました。
そして、次に私はこうも思いました。
『進学を口実に家を出られるのではないか。』
その後、何とか県外の大学に入学することができ、一人暮らしをはじめました。
ほとんど逃げるように実家を出てきて、本当に良かったのか。
最近よく考えます。
たぶん、こちらでの人間関係も上手くいっていないから。
孤独感を感じて、それで。
ただ、少し話を聞いて欲しかったんです。
私って頑張ってる、って思いたかっただけなんです。
人生の楽しみ方ってどうだったのかな。
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