Giftpilz-毒キノコ(独)
読んだところで気を害するだけの毒のような書きなぐりの愚痴である。
子供の頃から何かおかしいと思っていたが、違和感の正体が最近わかった。自分は障がい者だった。
努力は費用対効果の面で言えばマイナス、とどのつまり給料泥棒の害悪である。当然競争レースからは既にドロップアウト。大人になってしまった今となって言われることと言えば「もう大人なんだから、君の自己責任だろう。」
学校の中なら教師は気を遣って空回りした努力を褒めてくれるかもしれないが、結局それは悲劇を先送りにしているだけである。
毎日目を覚ました瞬間から苦痛と絶望が始まる。朝起きて生きている、息をしているならそれだけできっと自分を病院に押し込むに足る理由になる。気が狂いそうだ。
何せこの国では安楽死は認められていない。反対する人間が必ず言うのが「そんなことをすればナチスの二の舞になる。」である。確かにそれは一理あるし、議論はなされるべきであるが慎重にしないといけないと思う。
しかし、今苦痛に苛まれる立場になって思うようになったのはそのような過敏に、容易に、ナチスの影を見出す、言わばナチス・アレルギーは弱者を苦しめているのではないかということである。安楽死はダメ、T4作戦を、あるいは最終的解決を忘れたのか?
では幸せに生きられるかというとそうでも無い。医者に行ったところで障がいは治らない、社会からは腫物扱いされて酷ければイジメられる、給与は雀の涙、待ち受けているのは崩壊寸前の社会保障制度と親の介護、そして自らも老化していくだけの絶望の運命である。
馬鹿やら貧乏やら、子供を産む資格のない人間は子供を産むなと、最近はそんなことをよく聞くようになった。
私もそう思う。わざわざ生まれてこなければ不幸を回避し、わざわざ幸せを追い求める必要はないのだから。
「ナチスの歴史」というカードは効力をなさないようになってきているのかもしれない。「障がいのある人間、病気を患っている人間は間引くべき」などという愚かな声は若々しくて、病気や社会に苛まれる苦痛を知らない人間だけが言っているのではない。
実際に社会に、病気に苦しめられ、見捨てられた人間、つまり、当時のナチスに間引かれるであろう側の人間がそれを理解した上で声を上げ初めているのである。
そんな人間が耐えかねてやけを起こして事件を起こしたニュース、聞き覚えがあることだろう。
今日、もはやナチスを封印しておくための人柱にされていることに弱者は気づいている。
幸せに生きる権利は万人にある、しかしそれを行使するために必要な対価は全て強者が独占している。椅子取りゲームに敗れた敗者は物言わずに勝手に塵になるわけではないということを社会は認識するべきである。
もうほとほと疲れた。