国語の授業。
年の最初はいっつも詩の授業。
説明文は別に何とも思わない。面倒なだけで。
詩を、私は「液体」とか「空気」とか「匂い」みたいな、数えられない、英語なら「s」がつかない存在だと思ってる。
私は詩や物語を読んで、その雰囲気を感じるのが好き。
一つの詩を突き詰めて考えれば、また違った考えができる。
その作業を、私は詩という「液体」の「容器」を作るようなイメージだと思ってる。
ワインをグラスに注げば、見た目や印象が変わるみたいに。
国語の授業で詩を扱うとき、ほとんどがこの「容器」作りをする授業になる。
でも、授業はいつも、作る「容器」を決められてる気がしてならない。不快。
クラス30人で一つの同じ結末にたどり着く。というか、誘導される。
確かにそうやって作り出した「容器」はきれいだし、正しいと思うけど、その過程が納得できないから不快感が残る。
そうやって勝手に決められた解釈に、「作者の気持ち」とか、「作者の伝えたいこと」とかいう名前を付ける。
何が作者の気持ちだ。作者の気持ちがわからなくても、自分なりの解釈ができればそれでいーじゃんか。
だから詩の授業は嫌いだ。