人に好かれるためには相手に合わせないといけない、
相手のペースに合わせないといけない、とてもストレス。
相手に合わせている自分の存在は何なんだろうと思う。
でも、本来の自分・素の自分で受け入れられない人間は、
ちやほやしたり、下手に出て相手の機嫌を取らないと価値がない。
本当はそんなことやりたくないけど、人に近づくためには
その自分がやりたくないことをやらないといけない。
人に近づきたいけど、やりたくないことをしないといけない。
なら、一人の方がずっとマシだと言い聞かせるけどしっくりこない。
だから、自分から心を開け、自分から~と言われると重苦しく感じる。
「また、あのやりたくないことをしないといけないのか」と思う。
自分から、自分から、その言葉にとても閉塞感を感じます。
押し付けられている気分、「こうでないといけない」と言われる気分。
何もしなければ何も得られない、でもやりたくないことで得たそれは
本当に自分が欲しいものなのかすら良く分からない。
好きなものを得るためにやりたくないことをする必要はあるけど、
そもそも、その好きなものすら本当に好きなのか・・・
グルグル回ってばかりです。
何でみんなそんなにポンポン差し出せるのでしょうか。
こんにちは。
主さんはきっと、吐き出し中なんだね。
私は、前も何度か書いてますが、課題自体は結構かぶっているので、
生きづらさに共通点もあります。
(私は、減らしていく方向で生活中です)
主さんの疑問も、なんだかんだ外野が言ってみた所で、
最後には、自分自身の中で「あっ!こういうことか」という
自発的な実感が伴わない限り、心が晴れる、物の見え方が変わることは
ないと私は思っています。
だけど、私は暇人なので、自分なりに答えが出ていることだけ書きます。
>相手に合わせている自分の存在は何なんだろうと思う
=その時点で、自分(自我がある自分)なんて存在していない。
他人のニーズに合わせて得た物が、自分の居場所、自分だ、ということは、
厳しく言えば、自我がない、未熟なまま歳だけとった人、ということ。
自分は他人の一部だ、が当たり前になってる人は、
だから、~ねばならない、を嫌いながらも、しがみついているだけ。
しがみつくのは、手放した時、自我が育っていないのが露呈するので、
拠り所がないので、ずっとそうしている。
心の拠り所は、自分自身で創っていくもの。
困ったら自分に頼れる練習(自我形成の練習)をさぼってると
こんな人になります。
私は、こういう人生が嫌なので、命ある限り、意地でも減らす!
主さんの選択は、わかんない。(あたしじゃないし)
人それぞれだもの。
変わらない、というのも、あるっちゃあるしね。
まいたん