私は高校2年生だ。あっという間に夏休みが近づいて、そろそろ本当に進路を決めないといけなくなった。
どこかの大学に進学するのか、高卒でそのまま就職するのかも決まってない私は、きっと先生にとって厄介な生徒なのだと思う。
そんな私は放課後、朝は7時半に登校、遅い時は20時に学校を出る生活をしている。「課題研究」という名目で様々な活動をしているからだ。
一緒に活動をしている数人の生徒は皆それぞれ目的がある。「大学進学のために必要な要素」「専門学校に行くための事前準備」「就職のために企業との関わり方の勉強をする」…。
私って、何のためにやってるんだろ?
皆、目標に向かって一生懸命やってる。私は中途半端な気持ちでここまで来てしまった。最近それを実感するようになってしまい、申し訳ない気持ちになった。
自慢ではないが私は下手に要領が良いらしく、テストの成績は上位を保っている。また部活(部活名は伏せます)でも個人で優秀であるという成績を納めた。
それらの要素によって、色々な先生から様々な期待をかけられている(らしい)。思い切り遊びたかったのにその期待に応えなければいけないプレッシャーを感じて正直不快だ。
この前、やりたいことを見つけた。自由テーマのイラストコンテストに応募したい、そう思った。
勉強や部活に全く関係ない、むしろそれらの妨げになるイラストに力を入れたい。私は昔から絵を描くのが大好きだった。高校では全く関係のない部活に入ったが、今も授業の合間や週末には絵を描いている。
そんな大好きな絵で、勝負できる場を見つけたのだ。楽しそう。私もこの土俵に立ちたい。自分の好きをぶつけたい。そう思って、私は真っ先に先生に伝えた。やりたいことが見つかったと。
でも、その返事は私が想像していたものとは全く異なっていた。
「それはそれでいいかもだけど、絵が好きならこっちの絵画コンクールに出してみない?」
見せられたのは、環境が題材の、風景画のようなタッチが求められる絵画コンクールだった。
違う。私が描きたいのはデジタルで楽しく好きなものを好きなだけ描く、自由な絵なのに。同じ「絵」のはずなのに。
なぜか、やっと見つけた自分がやりたいことをとても否定されたような気がして悲しかった。
先生は軽い気持ちで言ったんだ。決して私のことを否定しようとしたわけじゃないんだ。そう言い聞かせたのに、あの一言だけがショックでしばらく立ち直れなかった。
その後も中途半端な気持ちで課題研究に参加している。やりたいと言ったイラストコンテストにも応募するのか分からなくなってきた。
自分がやりたいこともろくに出来ずに、ただ先生が生徒にやってほしいことを自動的に「はい」と返して行うだけのロボットになっている気がする。
ほんとは友達といっぱい遊びたい。課題を適当にやって、適当な点数をとって、適当な進路を進んで、適当な人生を歩むものだと思ってた。
でも、現実はそうも行かなかった。私が断りきれない性格なばかりに。
私って、何のために頑張ってるんだろう。
資本主義だから、文化とビジネスが混じっている。もしも石器時代なら、食べることと、歌とか絵とか、食べることと文化。
資本主義だけど、食べることと文化。文化がビジネスになるのは資本主義だから。
やりたいことが食べることに直結するのもいい。もしも直結しなくても、やりたいことのために、まずは食べる。やりたいことの側でまずは食べる。
心が動いたなら、それは生きる上でのヒントだと思うので。周りの人も、ご飯を食べれる生活をしていたら、欲を言えば、食べて若干の貯蓄がある生活を送っていたら。おそらく、それ以上の欲?期待?はまぁひとまず十分だと思うので。
絵もさ、億単位のお金を動かせるサクラがいたら、話題になってどんどん売れたりすると思うんだ。いいから売れる場合が多いと思うけど、ビジネスだから、売り方のうまさもある気がして。
何のために頑張るか?私が思うのは、食べることと文化。食べることと絵。でどうだろう。