私は、「反出生主義」という言葉を知る前から反出生主義者だった。巡り合わせの良くない自分の人生(ミクロ視点)と世界中で起こる諸問題(マクロ視点)が噛み合った結果、「存在しない」以外の解決策を見出すことができなくなった。
私の原風景は「生きたまま肉食動物に捕食される草食動物」である。存在するということは、暴力と痛みの中に身を置くことを意味する。どんなに幸せな存在だろうといずれ来る死は避けられないし、生きるということはそれだけで他者を害することになる。
詳細は愚かにも忘れてしまったのだが、ギリシャ神話にとあるエピソードがある。とある兄弟がなんらかの功績を挙げ、人々から賞賛される。その様子を見た母親は、「こんなに素晴らしい子供達にどうか褒美を」と神に願う。神は「翌日にその褒美を与えよう」と言った。母親が心躍らせながら翌日を迎えると、その兄弟は死んでいた、というものである。神が与えた褒美は「賞賛の中での死」であったのだ。
幸福でも、不幸でも、全ての生命はもう速やかに死滅するべきである。この世界が問題だらけだからそう思うのだ、と言われれば否定できないが、私は、例えあり得ないほどの奇跡が起こってこの世界の誰よりも幸福になったとしても、「存在しない」ことを望む。何故なら、存在している限り、意識を捨てることは不可能だからである。
私の望みは、意識を捨て、あらゆる感覚を感じなくなることにある。悲しみがあるなら喜びなどいらないし、苦しみがあるなら成功などいらない。自分も、他人も、何もかもがゼロになることが私の望みである。
私は世界の終わりを望んではいるが、今のままでは苦しみを伴う形でしか世界を終わらせることができないという事実を心苦しく思う。市川拓司「こんなにも優しい、世界の終わりかた」のような終わりが一日も早く訪れることを願っているし、それ以外の解決は認められない。植物や微生物も含めた、あらゆる生命体の活動を永久に停止させる安眠ガスが全世界に散布される日を待っている。
本当はもっとセンセーショナルな死に方をして、生きることを無条件に肯定できる大多数の愚か者達にも伝わるように「存在しない」ことの魅力を伝えることができれば良いのだが、残念ながらそれにはまだ時間がかかりそうである。
未だ反出生主義は嘲笑をもって迎えられるものであり、まともに取り合う必要のないものとして大多数の人間に受け入れられているからである。
また、反出生的人間はその性質上、必然的に減少していくものであるため、結局この世界は無益な生を崇拝する愚か者達で埋め尽くされる。
私は、自殺を理性的な行為であると勘違いしている。しかし普通の人間は生きることを良いことだと勘違いしている。そして生命とはすべからく不幸なものである。死以外の解決策などない。ここにいる人ならもうわかっているでしょう? 私達は死ぬしかないのだと。
全生命が死滅しなければ私は幸せにはなれません。
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ななしさん
「この世に生まれないこと以上の幸せはない」(漫画『進撃の巨人』より)という台詞を思い出しました。
生とは苦であるとはブッダも言っていたしね。
生まれた以上、病気と老いと死は誰にも避けられない。生きると言うのは苦しみの連続だ。
ただ「だから〜」から先の理屈は様々。
「だから生まれないほうがよい」
「だから助け合うべき」
「だから幸せな瞬間が尊い」
どうとでも言えるのは、そこに論理的な必然などないからだと思う。
必然がないのだから「生まれない方がよい」も別に間違いではないと思う。
しかし、もうあなたも私も生まれてしまっている。
すでに生まれてしまった命が死ぬことと、存在をなかったことにするのは、まったく違うことだ。
存在をなかったことにしたいという気持ちは私も切実に持ったことがある。今だって無くしたわけではない。でもそれはどうせなら樹木に生まれたかったという願いと同じく、この世に私としてすでに生まれてしまった以上、どうにもならないことだ。
その苦しさまではすんなり分かる。
しかし「だからすべての生き物は生まれるべきではない」は分からない。まして「すでに生まれたすべてのものも生き続けるべきではない」はなおさら。
それが論理的飛躍だと感じるのは、その結論には自明でない前提が隠されているからだ。具体的には「わたしと他者は同じである*」と「わたしの判断は他者の判断より正しい」という、お互い矛盾し且つそれぞれ成立しない前提。(*ここでの「同じ」とは「本質の同一」のことで「存在の同等」ではない。)
私は別に生きることを良いと思っているから生きているわけではない。生まれたことも、生きていることも、死ぬことも…「世界」は私の意思や価値評価などには無関心だ。その無関心という事実を耐え難く感じる瞬間は確かにある。
世界の滅亡を願うのも、共に生きる他者を求めるのも、結局同じことに思える。どちらも根底にあるのは、世界の無関心と存在の孤独を耐え難く感じる、すでに生まれてしまった人間の心ではないか。
名前の有る小瓶
すみません。ひどいことを言うかもしれません。不快になるかもしれません。なのでスペースを設けます。読んで嫌な気持ちになった苦情は受け付けます。
「望みは、意識を捨て、あらゆる感覚を感じなくなることにある」のであれば、
どうして最後の文、幸せの文字がでてくるのでしょう?
知的欲求です。人のことがわからないから知りたいのです。教えていただけると嬉しいです。
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