母は、何十年もの間、日記を書く習慣があった。
4年前の12月のある日、その日記は、とうとう止まってしまった。
大阪のクリニックの放火事件があった日、脳梗塞を発症したためだ。
その日、テレビを見ながらお昼を食べていた母は、いつものようにテレビの字幕を声を出して読み始めた。
そばにいた私は、母の呂律が回っていないことに気付いた。
その場で電話まで後ずさりして救急車を呼び、30分後には、母は病院にいた。
そして、案の定、脳梗塞の診断を受けた。
この年の2月、母は圧迫骨折で入院した。
入院中に要介護2の判定を受けて、私の介護生活が始まった。
慣れないことだらけ。
加えて、不安なことも多く、ストレス過多で、私自身、不調のオンパレードだった。
内科、循環器科、整形外科、皮膚科等、まさに病院行脚の日々。
そして、行く先々で、院内に貼ってある「脳梗塞啓発ポスター」を目にしていた。
FACE:顔の片側のゆがみ
ARM:片腕が下がる
SPEECH:呂律が回らない
TIME:症状が出た時刻を確認しておく
で、合言葉は「FAST」と書かれたポスターだ。
母の喋りのおかしさに気付いたとき、すぐに救急車を呼ぶことが出来たのは、このポスターを頻繁に目にしていたためだ。
あれから4年。
現在、母が身体のどこにも麻痺がなく、口から食べられる状態を維持出来ているのは、この時の処置の速さのお陰もあるだろう。
だが、残念ながら、認知症の方が進行してしまった。
その結果、読み書きというものが一切できなくなった。
新聞を毎朝4紙も読み、赤線を引きまくり、スクラップするのが日課だった人が。
暇さえあれば、3冊くらい色々な本を並行して読みまくっていた人が。
毎日毎日、朝一番に、日記に起床時刻と気温と湿度を記録し、その日の出来事や気持ちを書き綴っていた人が。
短期的記憶力が損なわれると、今読んでいるものの数行前に何が書いてあったかも覚えていられない。
そのため、楽しむことはおろか、内容を理解することも出来ないらしい。
この時に母が辿った経過を思い出すとき、いつも一緒に頭に浮かぶエピソードがある。
黒澤監督が、若かりし頃、結核で療養中の筈の伏水監督と渋谷でばったり会った時の話だ。
病気で凄惨なほどやせ衰えた伏水監督が、
「でもね、映画が作りたいんだ。どうしても、映画が創りたいんだよ」
と無理やり笑顔を作って言うのを聞いて、胸を突かれたという話。
ついこの間まで当たり前に出来ていたことが出来なくなる日は、突然やってくる。
その時になってから、
「あんなに出来ることがあったのに、一体何をやっていたんだ!」
と悔いたって遅い。
4年前の12月のある日以降、白紙のままの母の日記帳は、
「今、出来ることをやれ。自分にできることをやれ」
という私への戒めだ思っている。
誰でも無料でお返事をすることが出来ます。
お返事がもらえると小瓶主さんはすごくうれしいと思います
▶ お返事の注意事項