私は家族からの虐待も、クラスメイトからのいじめも、なにも体験したことがない。
それなのに、どうして人格ができているのだろうか。
本当に、この子達は人格なのだろうか。
妄想ではないのか。
そんなことを考えるのは、彼らにとっても失礼に値するだろう。
ただ、そう考えてしまうほど、私にはその境界線が曖昧なのだ。
「その場合の感覚」を知り得ることができなければ、私にとってはなにも正しくはなく間違ってもいない。
「正しい感覚」を知り得ない私に、それが正しいのか判断する術はないのだ。
私の感じる「気持ち悪い」は本当に「気持ち悪い」なのだろうか。
私の感じる「辛い」は本当に「辛い」なのだろうか。
私の感じる「幸せ」は本当に「幸せ」なのだろうか。
私は、他人の感覚に異議を申し立てることができない。
私の感覚が正しいという確証があれば、少なくとも可能性は生まれるだろう。
なにも確証がないのにも関わらず、異議を唱えることは私には許されない。
箱を開けるまで猫の生死がわからないように、正しい感覚を知り得ない限りその真実はわからない。
正しい感覚を知らないのは、箱の鍵がないようなものである。
全てが可能性と憶測の世界でしかない。
そこに結論を生み出すことは、永遠と続く砂漠のどこかをゴールとするのと変わらない。
本当にそこがゴールであるのかわからない状態で、どうしてそこがゴールと称せるのだろうか。
誰か、私に「正しい感覚」を教えてくれ。
今はこういう気分だった。
私自身が、この言葉回しで、理解されにくい感覚を自分の意思で謳っている。
万人に理解されるとは思っていない。
少なくとも、今の私はこういう気分であった。
ただそれだけのこと。