私は以前こんな投書を読んだことがあります。震災が起きて、津波が迫る中、足が不自由なおばあちゃんを背負って高台へ避難しようとしたお孫さんの話です。おばあさんはその方に私を置いて行きなさい!後から行くから!と言い、お孫さんはその言葉に従って助かりましたが、その後おばあさんは体育館で冷たくなった姿で発見されたそうです。どうして私はあの時おばあちゃんを置いて逃げてしまったのだろう。どうして。これから私はどうやって生きていけばいいのだろう。という投書でした。私はそれを思い出すたびに涙を流さずにはいられません。私は精神疾患を患った祖母をずっと介護してきました。小さい頃からおばあちゃんの見張り役を任され、友達と遊ぶこともできず、薬の変更を忘れ、渡した薬が間違っていたなどの理由で親から叱られる日々。苦しんでいるおばあちゃんに向かって、ねえ、早く死ねば?と言ってしまったこともあります。けれども、それは私が長年おばあちゃんと一緒にいたからこその感情だと思います。誰かと過ごす時間が長ければ長いほど、時にどうしようもなく嫌いになる時、はたまた嫌いになっていたことが嘘に思えるほど一緒にいてよかったと思える時。私の祖母は言葉を発することがなかったので、20年以上一緒に過ごしたにも関わらず、祖母の気持ち、祖母から見て私という人間がどういう存在だったかさえ、彼女が亡くなった今となっては、知る由もありません。自分に向かって死ねと言ってくる人を好きでいられる人は多分いません。私以上に、祖母は私が嫌いだったかもしれない。けれど、長年過ごしたからこそ、好きになれた日、嫌いだった日がそれぞれあります。人間同士なのだから、それは仕方ないと思っています。あなたがお祖父様とどのように過ごされていたのかはわかりません。人に死ねと言ったことのあるひどい私ですが、そんなことを言う自分が死ねば良いのにとは思えませんでした。だから多分あなたは優しい人なのだと思います。その優しさが、時に自分自身を苦しめることにもなる。亡くなった人の代わりや亡くなった人の分まで生きていくのは不可能です。なぜならそれはあまりにも重たすぎるから。人は人、自分は自分です。あなたはあなた自身に何をしてあげられますか?あなたはあなたしかいません。優しいあなたが、自分が代わればよかったと思えるあなただからこそ、自分自身のために、これからも生きて欲しいです。長文ごめんなさい。読んでくれてありがとう。