こんにちは。
大変なことになりましたね。不本意な班決めをされ、お悩みになられているということですか。
せっかくの修学旅行、不本意なメンバー決めをされるというのは決して心地の良いものではないでしょう。
ぼくもあなたの立場であればきっと嫌だな、と思ってしまうかもしれません。不本意な人とのめぐりあわせというのは誰しもあるものであり、それを嫌に思う気持ちもあなたに限らず人として自然なものです、それを否定するつもりはありません。
ですがそもそも、班決めに限らず人との出会いというのは基本的に自分で決められるものではありません。
我々は生まれる国も両親も選べず、気が付いたらこの国で両親のもとに生まれていたはずです。それと同じことです。
また、あなたの学校がどうかは分かりませんが、生徒たちの一存のみで班決めをしてしまうと、クラスで嫌われている人のみがあからさまに仲間外れにされたり「お前は入れてやらない」といじめのきっかけにもなりかねないこともあり、最初から先生方が班を決めていることも少なくありません。
ここまでは「人との巡り合わせは自力ではどうにもできないことである。自力でどうにもできないことを悩んでもどうしようもない。」ということを認識してください。
さて、あなたのお言葉を借りれば「嫌われ者」が集まっているということですか。
人間というのは0か100かではありません。ぼく自身も含めて人はみな良いところも悪いところもあります。
オーストリアの精神科医、アルフレッド・アドラーさんは「大切なのは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかである」という言葉をおっしゃられました。
不可抗力で得たその人たちとの出会いという環境を、「今は嫌われている人達と仲良くなるチャンス、誰も気づいていない長所に気付くチャンス」と捉えてみてはいかがでしょうか。
人は相性と運、努力次第ではどんな人とでも良好な交友関係を築ける可能性だってあるのです。
どんな親友とも、生まれた時から親友だったわけではない。その人との遊びを通じて無意識ながらに友人関係を築く努力をしてきたはずです。
「こんな嫌われている人たちとどうやって仲良くなればいいんだ?」と最初から否定せず、その方たちに自ら働きかけて仲良くなろうと心がけるのです。
その気持ちにこたえてくれるかどうかは相手の課題でどうにもできないことですが、相手に対して友好的に働きかけることはあなたの勇気一つで出来ること。
それでうまくいかなかったとしても、他者に対して友好の意志をもって働きかけるというシンプルだけど極めて難しいことが出来たということは強い自信につながるのです。
どうせ嫌われているんだ、と塞ぎ込んでいるその方たちだって、あなたの友好的な働きかけで心を開き、自分もまた他の人に同様の態度で接するようになるかもしれません。
仲のいい人たちだけで固まっていたい、という思いのままだといつまでも幼児性から脱却できない。偶然出会った人との出会いを大事にし、相互の意志や努力で良好な関係を築けるようになれる勇気や力を持ってこそ本当の自立を果たせます。
悪口や陰口が飛び交う環境であってもあなたは関係なく他者に対して友好的な働きかけをしましょう。それでどんなに馬鹿にされようと笑われようとその態度自体が尊いものですし、いつかはその姿勢が少しずつながら波及していくものです。
アドラーは「臆病が伝染するように、勇気も伝染するものだ。周りに勇気を与える。」「誰かが始めなくてはならない。他の人が協力的でなくても関係ない。あなたが始めるべきだ。」とも語っておられます。
周りがあなたをどう思うかはあなたにはどうにも出来ないことですが、あなたが嫌われるかもしれないリスクを取って周囲との交友の関係に踏み出すことはあなたの勇気一つで出来ること。
その勇気を持てば承認欲求は消え、もはや周囲があなたをどんなに笑おうと嫌おうと胸を張って人生を歩めるようになり、本当の幸せを得られるのみならず、その幸せを周囲にまで波及させることもできる。
はろさん、今回の件は確かに不本意なことだったかもしれません。
ですが、大きな成長のチャンスととらえて、その方たちと良好な人間関係を築くよう試みてはいかがでしょうか。
心より応援しております。
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