昔々にキリスト教がやらかした布教みたいな感じかな。
「我らが神が唯一絶対!!」って言って、他の国の神様をないがしろにしたり、異教徒を無理に改宗させたり悪魔扱いして虐殺したり。
話を聞いた時は「どっちが悪魔だよ…」って戦慄したのを覚えてる。
まあ、これは宗教を利用しての領土侵略とか、支配する側の人身掌握術とか、政治的な意図も大いにあったのだろうけどね。
現在でも宗教戦争があるように、キリスト教に限らず、いろいろな宗教にそういう闇の側面や歴史があるのだろう。
だから、「神様を利用して侵略してやれ!これはいい方法だ!」と企んだなら、とても悪どいけど、作戦として理解は出来る。
でも、「神様は絶対なんだ!逆らうのは許さない!」と盲目的に信じこんだ人もある程度の数はいたのだと思う。個人的にはこっちの方がよほど恐ろしい。自分にとっての常識以外、何も見えなくなっているのだから。
世界はとにかく広いから、自分の世界だけの常識に盲目的に従うこと、捕らわれすぎることは、時にはよくない結果に繋がることもあるのだとは思う。
ではどういう視点でいればいいのかと考えた時、月並みな表現だけど、大切なのは「良心」じゃないかな。
私達の知る常識の多くは、私達がよりよい生き方をする為に生まれてきたのだと思う。
自分も相手も傷つけない為の気遣いや、苦しい局面を乗り越えていく為の処世術が集まったものだと思う。先人が作った人生のマニュアルのひとつだと思う。
例え時代が変わっても、勉強とか仕事とか恋とか家族とか生とか死とか、人が喜んだり悩んだりする場面はさほど変わらないのだから、このマニュアルは決して下らないものじゃない。相応の価値があるし、その中から、自分の良心で、大切にしたいと思うものを選んだり、新しく付け足したりすればいいんじゃないかな。
あなたが常識を警戒するのは、まさしく昔のキリスト教がやっていたように、常識がただの洗脳の道具に見えているからだろう。
もう1度、あなたの良心で見てみればいい。
尊重できる所、感銘を受ける所は本当に少しもないかな?