理解するのは難しいかもしれない。
ならばせめて、許してほしい……か。
それも難しいか。わからない。
僕が理解できないことはなんだ?
幸せにならない者?
お金持ちがお金を何に使っているのか……とか?
自己が肯定されることとか
自己が承認されることとか
それもまあ、大事なのだろうけれど。
それだけでは生きていけないという残酷な現実も存在するわけで。
でも、他者から
肯定されるような人物は
承認されるような人物は
生きていく力があるものなのかもしれない。勉学に励んでいたり、仕事に精を出していたり……今時、それをしていないからといって否定するのは古い考えかもしれぬがね。
それに、それをしているからといって、肯定されるか承認されるかはわからないのも問題だ。
本来ならば、褒められて然るべきことが褒められないのはいかがなものか。
今
褒めて育てるのと、叱って育てるの
どちらのほうが伸びるのかを調べようとして第3の選択を確認。
うん。ぼくはまだまだ知見を深めていけるようだ。
対等か……
だがしかし、全てがその方法で上手くいく。というような、万能の策というのは、様々な人間が暮らすこの世では未だ存在しておらぬのでは?
だから未だにぼくは精神科に通院しているし、ここで「死にたい」と書き続けているのでは?
うーん……しかし、私の問題は、
絶対解決策がないわけじゃないのを想像できる。巡り合わない、巡り会いにいかないだけであって……んー、そこの解決策は?
奇跡が天から降ってくるのを待っているのを決断している以上、昔と変わらず「死にたい」ままは覚悟の上。
苦しくていいのだ。
死んでいいのだ。という開き直りのような意識は怠け者か、甘えか、クズか……
誰かがそんな評価を私に下すのも(というか自分が下しちゃっているのだが)、悪いことじゃないだろう。受け入れようではないか!
なにせボクは、生きたくもないこの世界で、頑張って生きているのだからな!
好きに罵りたまえ。
誰がなんと言おうとボクたちはスゴいのだ!
ボクを罵る君たちも、いつもありがとう!一生懸命頑張ってるから、頑張ってないように見えるボクが憎たらしいんだよね。君たちは幸せになるべきだ。本当にいつもお疲れ様です。君たちが生きていることで、いったいどれだけの者が助かっているだろうか、どれだけの者が感謝をしているだろうか。
本当に素晴らしい!ありがとうございます!!
なんか、『嫌いな人の幸せを願う』という対処方があるらしいね。逆にネガティブになっちゃう人もいるらしいけど。向き不向きがあるのだろう。
他人のために何か思い遣ることで自分のためにするパターンと、
自分のためをひたすら思い遣ることが他人のためにもなるパターンなど……
今はいいよね。本とか買わなくてもネットサーフィンして誰かが書いた記事読めば別の人の考え覗けるんだから。
でも「嫌いな人かぁ」って思って、特別「嫌い!」って人いないような……って思って、
しいて言うなら自分、と全人類。
みんな好きだし、みんな嫌いだからなぁ。あと無関心。
どれかひとつ答えを出さなきゃいけないなら、「好き」か「無」かだよね。「嫌い」はないな。そう考えるようにしてるからそうなのであって本心かは知らん。
こうして思考して書いているときは感情は置いてけぼりだよ。
だって、感情が乗るわけないじゃないか。「あいうえお」って言うときに特別な感情をわざわざ乗せないよ。そんなことしてたら疲れるじゃないか。
ああ、だからあれか、
綴った文字に対して「優しいですね」と言われても「?」ってなるのか。
そろそろ喋るの飽きた。
これたぶん長文だと思うんですが、僕にとっては標準です。長文の感覚が人によって違くて、「長文です」って書いてある小瓶に「短っ!」と思うことがあります。
これわかる人けっこういると思う。
なんならこれでも意外と短いな……って感じるくらいだけどなあ。
だって1日24時間あってそのうち活動時間が……
いや、もう飽きたって言ったのになんでさらに喋りはじめちゃうかなあ!!!
もうええて!Σヽ(>д<*)
ほなまた次の機会に~
さいなら