壁にぶつかってる小瓶。
向き合う。向き合う。向き合え。
ってひたすら向き合ってきた、もうちょっとで3年間。
それによって気づいたこともあったし、色々なことに自覚的になれたし、今自分のやっている学問にも結びついている部分があると思う。
けれど結局、向き合えば向き合うほど、原因は自分の中にある。
最近のは躍起になって犯人探しでしかない。
両親と環境。
誰かのせいにしたかった。私は、私の責任から逃げたかった。
けれど誰のせいでもないのだ。
私が悪い。
これは、悲劇のヒロインぶってるわけじゃなくて、離れて見た印象。
向き合うのが、しんどい。
というか散々向き合って、その先をどう転じていけばいいのかがわからない。
頭の中でしか生きられないところから、実生活に即した生き方にしなければならない。
それがわからない。
実生活で飛び込んでみても、概念だけぐるぐるしている。
欠けているものばかり探している。
今日の中古文学の授業で、「古典世界における恋愛物語は誰かを失ったところからはじまり、形代を求めるという形態を取る」という話を教授がしていた。
形代という言葉が私の中でしっくりきた。
うさぎさんは、父の代わりだった。
形代でしかなかった。
そして、形代の父を失い、またある意味では見捨てられた。
信じきれなかった。
私はあの人にとっての「誰か」の代わりなのだと思っていた、ずっと。
私にとってあの人が父(とあの子)の代わりであったのと同じように。
見捨てられ不安は私を見捨てなかった。
けれど、「幸せにしようとしてくれる人」のために私は幸せのふりをするしかなかった。
欠けているのに。
足りないのに。
お腹がすいているのに。
そうして、私は形代の付き合いしかできないんだな、と思った。
いつも父や母の影を探している。
父や母の影のない人は、苦手。
去年書いた小説について部活で合評会をやってもらったときに、「主人公以外の登場人物を舞台装置的に使っている」と指摘された。
(否定的ニュアンスではない)
確かに否定できなかったし、それは実際の私の見方であるとも思う。私小説だったし。
私にとって、家族はあまりに強力なコミュニティで、特に両親という存在の縛りはきつい。
両親がモラハラ・過干渉ということではなく、私の中で、私が両親の言い分を理解して家庭内で役割を果たしていくために、きっとそうすることが必要だった。
私-家族(に準ずる人)とそれ以外、という世界観。
本当は思春期の段階で抜けているはずの段階なのだろう。
私は、転んでぺしゃんこになっていたから。
そもそも欠けているから。
私は、誰に言い訳をしているの。
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」
課題のために久々に読んだ夏目漱石『こころ』の有名な台詞。
精神的な向上心という「崇高な」ものにしがみつかないと生きていけないの。
それはとても脆弱である。
脆い。私は。
このままいくと遠くないうちにまた転ぶ気がする。そして今度こそ、起き上がれなくなる。
早く打開しなくてはならない。
実生活に即した形に、実践をしなければならない。
けれどその方法がわからない。
数ヶ月に1度まで減っていた自傷が週1にまで戻ってきた。
精神状態が悪いから、漢方薬だけどお薬が増えた。にがい。
うさぎさんと別れたばかりの頃はここ数年でいちばん寝付きがよかったのに、今度は不眠状態になってきた。
この間、ちょっとしたきっかけで1週間くらいけっこう酷めの鬱状態になった。
食欲がない。
まずい状態だというのはよくわかっている。
はやく、はやく進まなきゃ。
どうしたらいいの。