私とは何なのでしょうね。
私は一度たりとも死にたいと思ったことがありません。
何度も自傷をしてきました。ストレスが分からない私にとって、それは摂食や排泄と同じようなことです。リストカットはしたことがないです。血は必要ではないから。
私はかなり機械的です。故に優しく平等に見えることがあるようです。
私と仲良くできてしまう奇妙で興味深い人たち以外の、聖人も犯罪者も親も知らない人もみな等しくその他なのです。
どれほど不快に思っても攻撃せず、かといって無視もしません。必要に応じて指先で手助けしたりもします。それが正しいと思うから。どうだっていいから。
私は人間的であろうとします。人間的とは何なのか分からないまま。
感情的とは違うようです。周囲の感情の波の中で、自分の心の凪ぐのがおかしいように思えて、おかしく見られるのを煩わしく思って、時折演技したりもします。
でももう、そういうのをやめようかなと考えています。それは私的ではないから。たぶん人間的でもない。脊髄反射と大して変わらないのではないのでしょうか、ほとんどの感情って。
この小瓶を読んでいるあなたがつくりあげた私という人間は、どういう形なのでしょうか。
合理的で、人間は機械、世界も全て数式で説明できる装置と考えている、感情を排した冷静で笑わない人間なような気がします。
もしそうなら、全く違います。
筋道が通っている、論理的であることは大切だと思いますが、合理主義の最短距離を好みません。寄り道と想定外こそ至上です。わくわくします。
人も世界も観測できない何か、不可思議で満ちていると信じています。科学も宗教も哲学も万能ではなく、世界の見方のほんの一部だと考えています。
感情は不得手で、一週間後の腹痛も人類滅亡も日常の延長なので慌てることはないですが、よく笑います。友人からすぐツボに入りしばらく笑い続ける人だと認識されています。ちょっとしたことで不意に涙目になります。赤ちゃんの尊さを感じたときとか、夕日が美しかったときとか。
人が想像している私を想定して、それに対する説明をするのって難しいですね。そもそも想定が外れていたら私の意図通りの使い方ができない文章。
小瓶を流すなかで、賢い人なのだろうと言われたことが何度かあります。しかし私は、その文章を書いたのは提出期限間近のレポートを3つも抱え、一昨日から餅やお菓子を貪り、今日は何をしようかな、もう何でもいいやーなんて言っているような人間だと知っているので、なんだか面白いです。それは私基準の賢い人ではないから。
ここまで読んだ猛者はほとんどいないだろうけれど、その人たちの想像する私が、スクロールするごとにぐにゃぐにゃ変わっていく様を想像します。もしかしたら最初から最後まで同じ形だったかもしれないけれど。
私から見た私も、誰かから見た私も、全部私と言えるのでしょう。
私って何者なのでしょうね。