同じ日本と言えども、ひとりひとり生きてきた世界が違うから、そこで身につけてきた愛情の伝え方は人それぞれで、それぞれの愛情の形態に対して受容体を持っているか、持っているならどれだけあるか、というのも人それぞれなのだろう。
私の話をする。
私は言葉による愛情表現に強いのかなと思う。自分で表現するのも、他者が言葉で表現したそれを愛情であると認識するのも、たぶん得意。そして、言葉による愛情表現というのは、多かれ少なかれ誰もが経験したことがあるだろうけれど、私は特に手紙が好きだ。手紙のやり取りという文化が盛んな女子校を生きたからかもしれない。そういう愛情表現のやり方を身につけたのだ。
あくまで私の見ている世界においてだが、手紙というやり方、手書きの文字という形態で愛を示すことは、そこそこ市民権を得ているのだと思う。デジタル化が進み、手紙を書くという行為の絶対量が減り、相対的価値が高まっているとも正直感じる。世の多くの人が、多かれ少なかれ「手紙」という形態の愛情表現について受容体を持ってくれている。私の恋人も例外ではない。
さて、世の中にはそれ以外の愛情表現も勿論あるわけで、私の恋人は身体的な距離の近さ、スキンシップ、もとい性交渉、といったものに最も愛情を感じる人らしい。
そういう愛情表現を行い受容する人がいるというのは知っていた。けれど、私自身がそういった愛情の形態に受容体を持っていないし、平たく言えば気持ち悪いと思ってしまう人なので、彼の気持ちはどうにも理解し難い。
今はまだ高校生だから、私が「そういうことはしたくない。嫌だ」と言ったら、世間からはきちんとした女の子だと評価されると思う。
でも、大学生になったら?社会人になったら?結婚して夫婦になったとしたら?
いつか、肉体関係を頑なに拒みつづける方が非難される状況になるだろう。そして、自分が理解できないからといって、彼の望む形態の愛情を与えることを拒絶するのは、私の自分勝手が過ぎるのかもしれない。
きっと、価値観の違いに集約されるのだろうけど、どうしたものでしょうかね。