「死にたい」ことへのハードルが低いと思った。このご時世ちょっと覗けばそこらへんに「死にたい」が転がってるし、ちょっとぐらいこぼしたって怒られないような。(ただしネットに限る)
ふとこの「死にたい」という気持ちは自分のものだろうかと思う。誰かに感化されているのではないか。可哀想な子供になりたくて、嫌いな過去を、父親との記憶を何回も何回も思い出して悦に浸っている気がする。
馬鹿かな。
人は生まれながらにして等しく価値ある大切な存在か、等しく無価値な存在か、私は後者だと思っているけれど、それを考えるにはまず「人の価値」というのがよく分からない。
その人の価値は誰か1人が決めるものではないし、それは本人も含めると思う。自分の価値は自分が決めて良いとかいうけれど、自分しか自分を認める者がいなければ森にでも行けと言うのだろうか。だって、周りが皆自分を否定するのなら、合わせた方が楽だろうに。生憎数人には軽く肯定されるから悲劇のヒロインを演じきれない。
中絶についての議論で思うけれど、自我がない命をそう大切に思う気持ちがあまり分からない。怒られそうで誰にも言えない。
まあそもそも母親が子を思う気持ちがよく分からないからそうか。
何でだろう。昔から母親は大切にしてきてくれたと思う。でも私が浮気に気付く前から既にそういうのは分からなかった。
自分に期待していないのは自己肯定感が低いからだろうか。ああ自分は何て駄目な奴なんだろう、とは思わない。事実として、私は評価の高い人間ではないと思う。
自分の経験から期待しないようにしてるからかな。多分そう。苦手な数学も今回は感触が良かったと嬉々として父親に話したらボロクソに悪くてえらく怒られた。子供は親に偉そうなことを言ってはいけないと言ったけど、親は子供を穀潰しって呼んでいいんだな。まあその一度きりだけれども。
私は将来自分の短所を何もかも環境のせいにしそうで怖い。ずっとそうしていたい。子供でいれば良い親に恵まれなくて可哀想と言ってもらえる。言って欲しい。私が努力しないといけないのか。周りの人間はこれっぽっちも悩まないところで転んで悩んで、それを私の前に特別転がってる石のせいにするのは駄目だろうか。
本当に、この生に感謝なんてこれっぽっちもないから、お願いだからお前らみたいな出来損ないの親に私を産んでほしくなかった。
「自分」の中には様々な要素や側面がありますが、親に対する葛藤はその中でも随一と言っていいくらい苦しいものです。
たとえどんな酷い親だったとしても、自分の中で憤懣と子どもとしての忠誠心や愛情を諦め切れない気持ち、親を絶対視して逆らえない気持ちが複雑に絡み合いますから。親のせいにするなと自分や他人にまで言いたがる人がいるのも、これのせいでしょう。
本当に親が虐待的で、一度徹底的にそこを親のせいであると認めることができ、その人なりの決着をつけることができた人は、いずれ段々と親の過不足を諦める境地にはなれるようです。
起こった事故を、すでに起こってしまったことだと受け入れざるを得ないのと同じように。
そのあとはもう、自分の問題なのでしょうね。
許すも許さないも自由。
感謝するしないも自由。
生きる死ぬさえも自由。
誰に何を言われたとしても。