この頃思うことです。
辛い経験をしないと
泥水体験をしないと
行きたい場所、内面の統合は出来ないのかなと
長く思っていました。
宛メでも、そういうベースで
ある時期まではわたしも
お返事をつらつら書いていたと思います。
ある意味鏡だと思うのですが
一見それと、似て非なるものを
幾度も目にするようになり
常に違和感があったのですが
やはり、本質が、欠落しているものは
形だけはそれらしく整えられていても
わたしのハートは正直で
音が鳴りません。
リアルの世界でも、
その直感は、意外にも当たっているようで、
日を置いて、そのひとそのひとの
中身、考えていることがわかる、を経て
そうだったのか!
と、気づくことがほとんどです。
よって来られても
こちらは一定の距離を保っています。
粘着依存系と、取り出したまま
自分に戻すことを拒絶しているひとの
言葉というのは
なんというか、
お菓子の入っていない
空き箱のような感じなのです。
箱が好き、側だけでいいという価値観の人もいるので
きっと、それで
需要と供給は取れているのだろうとは思います。
ただ、わたしは、
いま、何かを手にしてようがいまいが
涙のいちばん奥にあるものを
ひとりでしっかり、噛みしめた人の言葉以外は
あまり、わたし個人の中には
入れたくないなぁというのが本音です。
ラクをしてもしなくても
人が人である以上、
そこは、避けては通れない。
不幸なシナリオが好きか嫌いか
そういうこととは、次元の違う話です。
HAPPYな家族の一因だったとしても
人が人で在る以上
避けては通れない感情のことです。
観念的なことをつれづれ書いたので
伝えたい思いは特になく
書いて流したいのほうの小瓶です。
おしまいたん!
(ひさびさ)
晴れの日に足跡は出来ない。
雨の日の足跡は、深く大地にめり込んで刻まれる。
アスファルトの上でも、濡れた泥が無ければ足跡は付かない。
人も同じ。
晴ればかりの人生は、思い出すら残らない。
雨が降るから、思い出も深く刻まれる。
お金が無くて、公園のベンチに二人で腰掛けて、コンビニのおにぎりを半分にして、涙を流しながら食べていた老夫婦を見た。
幸せなのか、不幸なのか?
現実は残酷な程に不幸だろう。
でも、二人にとっては何にもまさる思い出だろう。
公園の周りにはたくさんの人が居ても、無機質でセピア色な世界から、二人だけを切り離して。
色濃く、眩しく、切なく、そして暖かい時間が深く刻まれる。
不幸だからこそ、涙の雨が降るからこそ。
明日、どちらかが死んでも、
互いに相手を思いやれる。
小瓶を読んで、ある老夫婦の事を思い出した。
多分、小瓶をうまく読み取れていないんだと思うのでわかりにくかったらごめんなさい。
涙をしっかり噛みしめる強さのしっかりというのは、どういう所が基準で判断されるんでしょうか。
誰かの話を聞いて、それに重みがあるか自分で審査した後に自分の中に入れるなら、その経験は重いと感じた相手なりの感覚や価値観は排除したみたいで、つまり相手と話したのでなく、相手の話を聞いた自分の心と話しているような感じに思うんです。
何でもかんでも理解し受け入れなくてはいけないんじゃなくて、ただ相手を丸ごと知ろうって、そういうのは相手に流されていて、自分の意思がないことになりますか。
なんか、よくわからない文ですね。
ごめんなさい。
わかるように書けないのは、私自身まだ噛み締められていないんだと思います。