他人と自分が違うことを理解しているから、調和出来るんだと思います。
主さんはカレーが好きで、私はカレーが嫌いだとする。
主さんは私のこと変だと思いますか。カレーを美味しいと思わないなんて人としておかしい、頭が狂ってると思う?
そこまでじゃないでしょ?
多分、「まあ、嫌いな人もいるよねー」くらいで済ませるでしょう?私も同じ。
だから私達はお互いを攻撃せず、喧嘩にならない。
カレーの部分を宗教とか文化とか、恋愛観とか、学力や運動能力の差とか、そういうものに置き換えても同じこと。
逆に絶対許せない、自分が正しいと憤る人がいれば、争いが起きる。国同士なら戦争が起きる。
私達は確かに、見たものや聞いたもの、善悪や美醜を自分のものさしではかります。
しかし、主観的思い込みがあっても常識が違っても、他人にもそれぞれものさしがあると知っているだけで、喧嘩にはならないんですよ。そこに調和が生まれる。
大切なのは、まず理解です。
主さんはいくつのものさしを理解出来ますか?
例えばあなたの主張と違う「思い込みなんか無い!」という意見が出てきたらどうですか、耳を傾けられますか?
信じられるものとは、そうしてものさしを見せ合って、わかり合えた先に見つかります。他人から「これを信じろ」と示してもらえるものではありません。
その通りだと思う。
でもそれって悪いことだろうか?
人間が感じるものにはいろいろなバイアスがかかっている。だから目に見えるものを誰かに伝える事も案外と難しい。
同じ月を見てるのに、方やウサギで、方や少女、方やカニみたいに、全然違うようにとらえるのはまさにクオリアなのか?
だけど、それでも世界が回っている。
みんな自分勝手他人勝手なのに。
しょっちゅう隣人と喧嘩してるし戦争してるのに。
その理由はさっぱりわからないけど、みんな違う感性を持っていて自分は良かったと思うよ。
伝える事が難しいからこそ、人間は言葉を作った。文字を作った。記録媒体を作った。
信じられる事実が儚げだから、人は神を信じ、神話を紡ぎ、童話を記した。
みんなが同じことを思う/感じるのなら、きっとこの世のすべての芸術が、なにより音楽が、特にロックンロールがなかっただろう。
だから自分はこれで良いと思う。
そういうものが無い世界なんてひどくつまらないからだ。
ただ、もしそんな曖昧な世界の中で何かを信じるとしたら、それはもう心の動く方向しかない。
考えるよりも先に体が動くなら、思いが焦がれて仕方ないなら、それが独断と偏見に満ち溢れたものなのだとしても、そもそも全ての事実が思い込みの産物なのだから、それはその人にとっての『事実』だよ。そしてそれを信じてみるのも、そう悪い事ではないと思うんだ。
まあ、何時ものように長くなったけど、この宛てメでも、一人だったら思い至らなかっただろうなぁという意見に出会うことがあって、読んでよかったと思うことばかりだ(もちろん、この手紙もそうだ!)。
何が真実がは知らないけど、あなたが考えているあなたにとっての『事実』、機会があったらもっと聞きたいな。